院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


タツノオトシゴ


 

私の父は今年の年男・酉年生まれである。三月の誕生日で八十四歳になる。働き盛りであるはずの三十代から五十代にかけてまともに働かず、その間母が一人で家計を支えた。昼間から家でごろごろしているような頼りにならない父であった。遊んでもらったり、何かを買ってもらったりした記憶はほとんどないが、ひとついい思い出がある。私がまだ幼い頃、家族で海岸に遊びに行った時、父がタツノオトシゴを捕まえたことがあった。父は「めずらしいね。」と言って得意気に笑った。いい笑顔だった。初めてみる奇抜な格好をした魚と思いがけず身近に感じた父。時代は少しずれるが、父の愛煙していた煙草がタツノオトシゴを絵柄にした「うるま」だったこともあり、そのエピソードは長く記憶の片隅に留まることになる。
 これまで存在感の薄い父であったが、最近は大腸憩室症で多量の下血があったり、閉塞性動脈硬化症で歩行がおぼつかなくなり、外出時は車椅子が必要となったりで、なにかと手のかかる存在にのし上がってきている。悪態をつきながらも孝行息子を演じている。私のややレイジーな性格は父譲りであると推察できるが、もう一つ否定し得ない遺伝的相似は縮れ毛、いわゆる天然パーマである。父と私の髪の毛は、まるでタツノオトシゴの尻尾のように、くるりんとカールしているのである。これは過去のトラウマと結びつき、父を疎んじる大きな原因のひとつになった。
 そんな宿痾の遺伝的素因を私の息子も引き継いで、あちこちに跳ねる髪をもてあましているようだ。その彼の中学入試が去年の暮れにあり、面接試験に私も同席した。「尊敬している人は?」の予想外の質問に、息子は間髪を入れず「父です。」と答えた。不覚にも目が潤んだ。「ばかやろう、こんな時に親を泣かせるな。四十数年間、私が言えなかった科白をいけしゃあしゃあと言いやがって。」
 いろんなことがあった一年だった。でもいい年になったと思った。そして息子の言葉の重さに、身の引きしまる思いがした。新年は息子にも、反面教師である父に対しても、父としてそして息子として、よりよく生きようと誓った。タツノオトシゴは竜の落とし子ではなく、同じ格好をした親から生まれ、同じ格好の子を産み育てていく。そんな当たり前のことがとても大切なこととして心に残った。少し優しい気持ちになった。


→父と息子のキャッチボール


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